#13

次の週、 政子はさっそく初級クラスのレッスンの見学をした。


広々とした初級クラスの馬場のすぐ横に立ち、そのレッスンを見ていた。

馬たちが滑らかに速歩を繰り返し、騎手たちが軽やかにそれを操る様子に、

圧倒されながら、ただ見入るしかなかった。


「すごいなぁ…」


政子が小さく呟いたその時、目の前をひときわ華やかな若い女性が軽速歩で通り過ぎた。


彼女は鮮やかなジャケットに身を包み、馬のリズムに合わせてまるで踊るような乗り方をしていた。


その女性が政子の近くで馬を止め、休憩に入る。
馬場の外にいる政子に気づき向き直った。


「こんにちは~!あなた、見学の人?」


突然声をかけられた政子は少し驚きながらも、


「え、はい。今度から初級クラスに上がる予定なんで…」


と答えた。


女性はにこやかに笑いながら、


「めーるるです!よろしくお願いしますね、おばさん!」


と、軽い口調で挨拶をした。


「お、おばさん…?」


政子は戸惑いながらも、一応笑顔を浮かべた。


「芝田政子といいます。よろしくお願いします」


その言葉を聞き終える前に、

「あ、私の番だから、じゃあね~」


と、また軽い口調で、軽く走り出して去って行った。


呆気に取られていると、

入れ替わるように、今度はクールな雰囲気を纏った女性が同じ場所に休憩にやってきた。


それまで、まるで人馬一体の流れるような動きで軽速歩をしていたその女性は、

すっと馬を止めると、静かに柔らかく、政子に挨拶をした。

「革田優香です。初級クラスの見学ですね。馬場でお会いできるのを楽しみにしています」


彼女の落ち着き払った態度と流れるような動きに、政子は思わず見惚れてしまった。


先ほどのめーるるとは対照的な雰囲気に、

ただ「よろしくお願いします」とだけ返すのが精一杯だった。


革田は少し微笑むと、馬場の方を向き、馬の首を撫で、また流れるように走り出した。



「このクラス、楽しいですよ。めーるるさんも革田さんも、もうすぐ中級クラスに上がる実力者ですけど、みんなフレンドリーだから安心してくださいね」


と、いつのまにか傍にいたインストラクターの一花が、優しくフォローするように声をかけた。


「それは楽しみです…でも、私にできるかしら」


と政子は不安げに呟いた。


すると、また休憩に来ためーるるがその言葉を聞きつけたのか、

軽快な声で


「大丈夫大丈夫!最初はみんな同じだから~。ま、すぐ私みたいにはなれないけどね」


とウインクを飛ばしながら


「応援してるから、おばさんも頑張ってね、ははは!」


と笑った。


政子は困惑気味に


「あ、ありがとうね…おば、おばさんもがんばるわ・・・」


と、少し引きつり笑いをしながら一花の方を見た。


一花も苦笑いを浮かべ


「あ、あの、めーるるさんも悪気はないので…」


というのが精一杯だった。



帰りの電車で、政子は初級クラスに進む緊張と楽しみの両方を胸に抱いていた。


(めーるるの言葉は少し気になったが…)


めーるると革田優香の馬上での鮮やかな姿を思い出しながら、彼女は静かに決意した。


「いつか、私も彼女たちと肩を並べられるように頑張ろう!」


政子の心には、新たな挑戦に燃える小さな炎が灯った。




(つづく)


#12

声の主は、緒壁幸代(おかべゆきよ)だった。

幸代はつかつかと馬のそばに近づき、その表情には怒りがこもっていた。


「習ったでしょ?馬を洗い場に繋ぐときは、ちゃんと無口に付け替えなさいよ!
こうやって頭絡のまま、ハミで直接洗い場に繋いでたら、何かあった時に馬が暴れて口を傷つけることになるのよ!?」


強い口調で言いながら、幸代はテキパキと政子の馬の頭絡を外し、無口に付け替えた。


その様子に気づいたインストラクターの横川一花が慌てて駆け寄ってくる。

「緒壁さん、どうされました?」


「この方が、ハミで直接馬を繋いでいたので」


「そうでしたか…緒壁さんごめんなさい。 柴田さんも、任せてしまってごめんなさい…」

一花は申し訳なさそうに言う。


政子はうつむきながら

「いえ、私が習ったことを守っていなかったから…」

と小さな声で答えた。



「気をつけて?」

と、相変わらず強めの口調で言い残し、幸代はその場を離れていった。



政子は涙目になりながら、

「一花さん、ごめんなさい…」

とやっとの思いで言葉を絞り出した。



すると、一花は馬の鼻を優しく撫でながら、少し小さな声でゆっくりと話し始めた。


「実はね、もう10年くらい前になるかな…緒壁さんがとても気に入っていた馬がいたの。 ある日、レッスンが終わったあと、緒壁さんが今と同じようにその子を洗い場に直接ハミで繋いでいて、本当に運が悪く、急に大きな物音がして、その子が驚いて暴れ出してしまったんです。

その時、やっぱり、その子の口が切れてしまって… その子は乗馬馬として復帰できなくなってしまったんです…」



「そんな…」



「そのあと、緒壁さんはしばらくクラブを休んでいたけど、やっぱり馬が好きで戻ってきてくれたんです。
でも、それ以来、明るさが無くなってしまったというか…どこか以前とは違う感じになってしまって…」


一花は少し寂しそうに話し続けた。


そして、今度は少し微笑んで優しく付け加えた。

「緒壁さんはね、このクラブに20年近く在籍していて、

あ、だから私よりずっと先輩なのね、ふふ、

でも本当に、昔から今も、とにかく馬を大事にする人なの。
だから、少し厳しいところがあるかもしれないけど、それも全部、馬への愛情から来てるんですよ」


その言葉を聞き、政子は改めて幸代の強い視線と、彼女の一言一言が持つ重さを思い出した。


政子にとって、馬と接することはまだ新鮮な挑戦に過ぎなかったが、幸代にとっては長年積み重ねてきた大切な存在であり、守りたい相手だったのだ。


目の前の馬が「ふるる」と無邪気に鼻を鳴らす。


政子はその濁りの無い美しい瞳を見つめながら、自分がどれだけ馬のことを考えられていなかったかを痛感した。


「ごめんね…」

と小さく呟き、その子の鼻をそっと撫でると、触れた手から伝わる温かさが彼女の心をじんわりと満たしていく。


「私も…もっとあなたを大事にするね」


その子に向かって心の中で静かに誓い、

「よろしくね」

と小さく声に出すと、
政子は、幸代や一花が大切にしてきた「馬への思い」を受け継ぐように、再び強い決意を抱いたのだった。


(つづく)





#11

政子が乗馬クラブに通い始めてから1か月程が経った。

平日はパート、土日は乗馬クラブという生活リズムが出来上がり、充実した日々を過ごしていた。

最初の頃は、馬に跨がるだけで緊張し、全身に余計な力が入ってしまって、肩や腕がすぐにパンパンに疲れてしまった。

レッスンを終えた翌日には、太ももやふくらはぎが筋肉痛になり、階段の上り下りも辛いほどだった。

最初に覚える騎乗、馬の動きに合わせて体を動かす「軽速歩(けいはやあし)」の練習では、馬のリズムに乗れず、馬が小さく跳ねるたびに政子の体が飛び跳ねるように揺れてしまう。
インストラクターから「肩の力を抜いて」「もっとリラックスして」と言われるたびに、政子はぎこちなく笑うしかなかった。

さらに、レッスンの途中で「手綱はしっかり、でも柔らかく」と指示されるたび、政子は「どういうこと?」と頭の中が混乱するばかりだった。
力が入りすぎて手綱を引きすぎてしまい、馬が嫌がって首を振ると「あ、ごめんね!」と、馬に小さく謝り、 レッスンが終わると、
「普通に乗れるようになるまで、何年かかるのかしら…」
と落ち込む事が多かった。


そして、
ちょうど10回目のレッスンの時だった、
「1,2,1,2,そうそう、うまくリズムが取れてきましたね!」
インストラクターの声に合わせて、ようやく馬のリズムに体を合わせる事が出来た。

失敗と注意の繰り返しに、最初は心が折れそうになったが、 その時、ぴたりと馬とのリズムが合い軽速歩が継続する瞬間が訪れたのだ。

(リズムとリラックス、リズムとリラックス)

とつぶやきながら、 ついに、軽速歩のコツを掴んだ政子は、その後、何度でも出来るようになった。
「私、できた…!」

軽速歩が続くと、風が心地よく頬を撫で、馬と一体になれたような感覚になる。
政子は、自分が夢見た騎手の姿に一歩近づいた気がして、胸が高鳴った。

「初心者レッスン卒業ですね!次回から上のクラスに行きましょうか!」

インストラクターのその言葉に、政子の顔に自然と笑みが浮かび、嬉しさと達成感でいっぱいになった。

レッスンが終わり、馬を降りると、いつもとは違い足取りが軽く感じられ、自分の心が少し大きくなったような気さえした。

洗い場に馬を繋ぎ、「ふ~っ」と一息ついた瞬間、自分が思わずにやけていることに気づき、さらに嬉しさが込み上げてきた。



その時だった、

「あんた、何やってんのよ!」

突然、後ろの方から怒鳴り声が聞こえた。
何が起こったか一瞬分からなかったが、
その怒鳴り声は、どうやら自分に向けられている事に気づいた。
恐る恐る後ろを振り返ると、 一人の女性が政子の方をにらみ、立ち尽くしていた。


(つづく)

#10


翌朝、

朝の静けさの中、政子はいつものようにキッチンで朝食の準備をしていた。


昨日の夫との衝突がまだ頭の片隅に残っていたが、それを振り払おうと気持ちを切り替えようとしていた。

政子と富善はお互い特に会話も無いままだった。


富善はいつもより早く朝食を終え、いつもより30分ほど早く家を出て行った。

その直後、 空がいつものように寝ぼけた顔で、階段をゆっくりと降りてきた。

政子の方を少し見てテーブルに座り、
小さな声で「いただきます」と言って、用意してあったパンに手を伸ばす。

政子は食器を洗いながら、ちらりと空の様子を伺う。
昨日のやり取りは、空の部屋まで聞こえていただろうという事は想像が出来ていた。

空もパンを一口食べながら、ちらりと政子の様子を伺った。


少し間を置いた後、テレビの方に目をやりながら
「母さんのやりたいようにやんなよ。」
と、また小さな声で言った。

彼の言葉にはいつものクールな響きがあったが、その裏に優しさが感じられた。


そんな空の言葉に政子は少し焦ったが、 その焦りを隠しながら
「あぁ、ありがとう。 大学、間に合うの?」
と空の方を見て言った。

空は
「大学なんて余裕だよ。
父さんにはさ、
俺からも何とか言っておくからさ。」 と、相変わらずパンをほおばりながらテレビを見たまま答えた。

「あんた! いつからそんなに逞しくなったの?!」
政子は嬉しくなって、少しにやけて尋ねた。


こうして、

空の援護はあったものの、あんまりすっきりしないまま、
政子の夢の入り口、乗馬クラブ通いは始まったのだった。


(つづく)



#9

家の玄関を開けると、政子は少し興奮した面持ちでリビングに足を踏み入れた。

家の中はいつも通りの静けさに包まれていたが、彼女の心の中では新しい挑戦への期待が高鳴っていた。

バッグを置いてキッチンへ向かうと、富善がテレビと新聞を同時に見ている姿が目に入る。

「ただいま、クラブと契約してきたよ」
と、軽く報告するつもりで声をかけた。

富善は新聞を広げたまま、少し眉をひそめて
「契約したって、乗馬クラブか?」
と政子の方を見た。

「そう。思った以上に素敵な場所で、すごく安心したの。
これから練習も本格的に始められると思うとワクワクするわ」

と、政子は心を弾ませながら説明する。

だが、富善は重い口調で言葉を続けた。

「おいおい、契約って、すぐにそんな大きな決断しちゃって大丈夫か?
お前、本気でやるつもりか?」

政子はその言葉に一瞬戸惑ったが、すぐに真剣な表情に変わった。

「え?もちろん本気よ。これまでずっとやりたかった事をやっと実現できるんだから」


しかし、富善は新聞をバサリと畳み、険しい表情で政子を見つめた。

「家計のこと考えたのか?
今さらそんな贅沢を楽しむ余裕があると思ってるのか?
家事だって手を抜かれたら困るし、お前にはもっとやるべきことがあるだろう!?」

その言葉に政子の胸が熱くなった。

彼女は今まで家族のために尽くしてきたが、ようやく自分のために何かを始められると思った矢先の反対に、言いようのない苛立ちが募る。

「贅沢じゃないわ。これは私の夢なの!
ずっと、子供が独立したら、自分のために何かしたいって思ってたのよ!
あなたには理解してもらえないかもしれないけど、これが私の新しい挑戦なの!」

富善は苛立ちを隠さずに、

「夢?挑戦? 
何をバカな事を言ってんだ。もう若くないんだぞ?
無理をしてケガでもしたらどうするんだ?
騎手になるだなんて、お前の夢は現実的じゃないのわかるだろ!?」

と反論する。

政子は目に涙を浮かべながら、必死に言葉を絞り出した。

「この前、あなた『怪我したら終わりだ』って言ったじゃない!
あれは何だったの?嘘だったの!?」

「そんなに早く決めると思わなかったし、普通はそういう大事なこと、事前に相談するもんだろ!」

富善も負けじと声を張り上げる。

政子は涙をこらえながら、心の中の想いを爆発させる。

「でも、私はどうしてもやりたいの!
ずっと家族のために生きてきたけど、今度は自分のために何かを挑戦したいの!
もう、誰かのためだけに生きるんじゃなくて、自分のために、自分の夢を追いたいのよ!」


富善は深くため息をつき、無言でテレビに視線を戻した。

画面には芸人達がふざけているバラエティ番組が映し出されている。

重たい沈黙が漂うリビングに、空気を読まない笑い声がむなしく響いていた。

政子は涙を拭きながら、立ち尽くしていた。

数分が過ぎた頃、富善がようやく口を開いた。

「もう、好きにしろ」

諦めたようにぼそりと言いながら、リモコンのボタンを押してテレビのチャンネルを変えた。

政子はそんな富善をじっと見つめ、彼が本当に理解してくれる日を心の奥で願いつつ、自分の夢を追いかける決意を固めた。

 

#8

日曜日の朝、政子はいつもより早く起きて、少し緊張した面持ちで身支度を整えていた。クローゼットから動きやすいジーンズとシャツを選び、鏡の前で軽く身だしなみを整える。

「これで、大丈夫かな…」

家を出る頃、まだ家族は眠っており、政子は静かに玄関のドアを閉めた。
外の空気は少しひんやりしていて、でもよく晴れていて日差しが嬉しかった。

これから始まる新しい挑戦に胸が高鳴るのを感じた。


電車に揺られながら、政子はスマホで乗馬クラブの場所を確認した。
色々な想像が頭の中を巡り、
「ここで、本当に自分がやっていけるのかな…」と不安もあったが、その一方で「ここで自分を変えられるかもしれない」という期待が心の奥底で燃えていた。


駅から少し歩いた先に見えたのは、緑に囲まれた広々とした敷地。
手作り感のある「ホースランド結」の看板と木製の馬の置物が出迎る。

政子はその光景に一瞬立ち止まった。
深呼吸を一つして、 足を一歩踏み出した。


受付で名前を告げると、若い女性のインストラクター:横川一花が温かく迎えてくれ、早速クラブ内を案内してくれることになった。

厩舎には、さまざまな種類の馬たちがのんびりと過ごしており、政子はその光景に魅了された。
一花が、馬の世話やクラブの事を丁寧に説明してくれたので、政子の緊張も少しずつほぐれていった。


一花が一頭一頭、馬を丁寧に紹介してくれ、政子は馬たちの鼻面を撫でながら、にやけながら、その温もりを感じていた。

その時、ふと2頭先にいる馬の前で立つ女性に気づいた。

美しく、落ち着いた雰囲気をまとったその女性は、馬に優しく語りかけているようだった。

政子はその姿を見た瞬間、胸の奥に何か引っかかるものを感じた。
「どこかで見たことがあるような…」と思いながらも、すぐには思い出せず、そのまま見学を続けることにした。

馬場では、数名の人たちが馬に乗り、レッスンを受けていた。その光景を目にした瞬間、政子の心の中で夢が膨らんでいった。
気づけば、彼女は自分でも気がつかないうちに、またにやけてしまっていた。

そんな政子の顔を見た一花が、くすっと笑いながら
「馬に乗ってやりたいこととかあるんですか?」と尋ねた。
突然の問いかけに少し戸惑った政子だったが、意を決して口を開いた。

「あの…そ、ソフト競馬を…」と、声を少し小さめにして答える。

一花は目を輝かせて、「へぇ~!そうなんですね!最近、ソフト競馬の参加者も増えてきてるんですよ。一緒に楽しみましょう!」と笑顔で応えた。

「いやぁ…でも、私みたいなおばさんが、大丈夫なんですか?」と、政子は少し不安そうに言った。

スタッフは優しく微笑んで、
「大丈夫ですよ!芝田さんと同じような年代の方や、それ以上の年齢の方もたくさん楽しんでますから!」
と政子を励ました。

政子はホッとした表情を浮かべ、「そうなの?良かった~」と安心したように笑顔を見せた。


見学が一通り終わると、政子と一花はロビーのテーブルについた。
間もなく、フロントスタッフがホットコーヒーを運んできた。
「どうぞ。」
政子が湯気が立ち上る温かいカップに手を伸ばした時、一花が口を開いた。

「…さて、芝田さん。一通りご覧いただきましたが、どうで
「やります!会員になります!」
政子はその高鳴る気持ちを抑えられず、一花の言葉を遮るように勢いよく告げた。

政子の瞳は、これから始まる新しい冒険に対する期待で輝いていた。

普段、“会員勧誘“に気と時間を十分に使っていた一花は、あまりの速さに戸惑いを隠し切れなかった。

「え、あの、まだ、金額とかお伝えしてないんですけど…」

「大丈夫!やります!」

もう止められない政子になっていた。

契約書を凄い勢いで書き、その勢いで初回の予約を入れてクラブを後にした。 

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#1

  5月の最終週、富士山が青空に映える晴れた日曜日。 御殿場馬術競技場は澄み渡る空気と共に緊張感に包まれていた。 政子は愛馬ウイニーと共に<富士山ダービー>のゲートゾーンに向かい、その瞬間の重みを噛みしめていた。 「ここまで来たんだ、私…」 緊張で必要以上に手綱を強く握っていた。...