家の玄関を開けると、政子は少し興奮した面持ちでリビングに足を踏み入れた。
家の中はいつも通りの静けさに包まれていたが、彼女の心の中では新しい挑戦への期待が高鳴っていた。
バッグを置いてキッチンへ向かうと、富善がテレビと新聞を同時に見ている姿が目に入る。
「ただいま、クラブと契約してきたよ」
と、軽く報告するつもりで声をかけた。
富善は新聞を広げたまま、少し眉をひそめて
「契約したって、乗馬クラブか?」
と政子の方を見た。
「そう。思った以上に素敵な場所で、すごく安心したの。
これから練習も本格的に始められると思うとワクワクするわ」
と、政子は心を弾ませながら説明する。
だが、富善は重い口調で言葉を続けた。
「おいおい、契約って、すぐにそんな大きな決断しちゃって大丈夫か?
お前、本気でやるつもりか?」
政子はその言葉に一瞬戸惑ったが、すぐに真剣な表情に変わった。
「え?もちろん本気よ。これまでずっとやりたかった事をやっと実現できるんだから」
しかし、富善は新聞をバサリと畳み、険しい表情で政子を見つめた。
「家計のこと考えたのか?
今さらそんな贅沢を楽しむ余裕があると思ってるのか?
家事だって手を抜かれたら困るし、お前にはもっとやるべきことがあるだろう!?」
その言葉に政子の胸が熱くなった。
彼女は今まで家族のために尽くしてきたが、ようやく自分のために何かを始められると思った矢先の反対に、言いようのない苛立ちが募る。
「贅沢じゃないわ。これは私の夢なの!
ずっと、子供が独立したら、自分のために何かしたいって思ってたのよ!
あなたには理解してもらえないかもしれないけど、これが私の新しい挑戦なの!」
富善は苛立ちを隠さずに、
「夢?挑戦?
何をバカな事を言ってんだ。もう若くないんだぞ?
無理をしてケガでもしたらどうするんだ?
騎手になるだなんて、お前の夢は現実的じゃないのわかるだろ!?」
と反論する。
政子は目に涙を浮かべながら、必死に言葉を絞り出した。
「この前、あなた『怪我したら終わりだ』って言ったじゃない!
あれは何だったの?嘘だったの!?」
「そんなに早く決めると思わなかったし、普通はそういう大事なこと、事前に相談するもんだろ!」
富善も負けじと声を張り上げる。
政子は涙をこらえながら、心の中の想いを爆発させる。
「でも、私はどうしてもやりたいの!
ずっと家族のために生きてきたけど、今度は自分のために何かを挑戦したいの!
もう、誰かのためだけに生きるんじゃなくて、自分のために、自分の夢を追いたいのよ!」
富善は深くため息をつき、無言でテレビに視線を戻した。
画面には芸人達がふざけているバラエティ番組が映し出されている。
重たい沈黙が漂うリビングに、空気を読まない笑い声がむなしく響いていた。
政子は涙を拭きながら、立ち尽くしていた。
数分が過ぎた頃、富善がようやく口を開いた。
「もう、好きにしろ」
諦めたようにぼそりと言いながら、リモコンのボタンを押してテレビのチャンネルを変えた。
政子はそんな富善をじっと見つめ、彼が本当に理解してくれる日を心の奥で願いつつ、自分の夢を追いかける決意を固めた。
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