声の主は、緒壁幸代(おかべゆきよ)だった。
幸代はつかつかと馬のそばに近づき、その表情には怒りがこもっていた。
「習ったでしょ?馬を洗い場に繋ぐときは、ちゃんと無口に付け替えなさいよ!
こうやって頭絡のまま、ハミで直接洗い場に繋いでたら、何かあった時に馬が暴れて口を傷つけることになるのよ!?」
強い口調で言いながら、幸代はテキパキと政子の馬の頭絡を外し、無口に付け替えた。
その様子に気づいたインストラクターの横川一花が慌てて駆け寄ってくる。
「緒壁さん、どうされました?」
「この方が、ハミで直接馬を繋いでいたので」
「そうでしたか…緒壁さんごめんなさい。
柴田さんも、任せてしまってごめんなさい…」
一花は申し訳なさそうに言う。
政子はうつむきながら
「いえ、私が習ったことを守っていなかったから…」
と小さな声で答えた。
「気をつけて?」
と、相変わらず強めの口調で言い残し、幸代はその場を離れていった。
政子は涙目になりながら、
「一花さん、ごめんなさい…」
とやっとの思いで言葉を絞り出した。
すると、一花は馬の鼻を優しく撫でながら、少し小さな声でゆっくりと話し始めた。
「実はね、もう10年くらい前になるかな…緒壁さんがとても気に入っていた馬がいたの。 ある日、レッスンが終わったあと、緒壁さんが今と同じようにその子を洗い場に直接ハミで繋いでいて、本当に運が悪く、急に大きな物音がして、その子が驚いて暴れ出してしまったんです。
その時、やっぱり、その子の口が切れてしまって… その子は乗馬馬として復帰できなくなってしまったんです…」
「そんな…」
「そのあと、緒壁さんはしばらくクラブを休んでいたけど、やっぱり馬が好きで戻ってきてくれたんです。
でも、それ以来、明るさが無くなってしまったというか…どこか以前とは違う感じになってしまって…」
一花は少し寂しそうに話し続けた。
そして、今度は少し微笑んで優しく付け加えた。
「緒壁さんはね、このクラブに20年近く在籍していて、
あ、だから私よりずっと先輩なのね、ふふ、
でも本当に、昔から今も、とにかく馬を大事にする人なの。
だから、少し厳しいところがあるかもしれないけど、それも全部、馬への愛情から来てるんですよ」
その言葉を聞き、政子は改めて幸代の強い視線と、彼女の一言一言が持つ重さを思い出した。
政子にとって、馬と接することはまだ新鮮な挑戦に過ぎなかったが、幸代にとっては長年積み重ねてきた大切な存在であり、守りたい相手だったのだ。
目の前の馬が「ふるる」と無邪気に鼻を鳴らす。
政子はその濁りの無い美しい瞳を見つめながら、自分がどれだけ馬のことを考えられていなかったかを痛感した。
「ごめんね…」
と小さく呟き、その子の鼻をそっと撫でると、触れた手から伝わる温かさが彼女の心をじんわりと満たしていく。
「私も…もっとあなたを大事にするね」
その子に向かって心の中で静かに誓い、
「よろしくね」
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