#12

声の主は、緒壁幸代(おかべゆきよ)だった。

幸代はつかつかと馬のそばに近づき、その表情には怒りがこもっていた。


「習ったでしょ?馬を洗い場に繋ぐときは、ちゃんと無口に付け替えなさいよ!
こうやって頭絡のまま、ハミで直接洗い場に繋いでたら、何かあった時に馬が暴れて口を傷つけることになるのよ!?」


強い口調で言いながら、幸代はテキパキと政子の馬の頭絡を外し、無口に付け替えた。


その様子に気づいたインストラクターの横川一花が慌てて駆け寄ってくる。

「緒壁さん、どうされました?」


「この方が、ハミで直接馬を繋いでいたので」


「そうでしたか…緒壁さんごめんなさい。 柴田さんも、任せてしまってごめんなさい…」

一花は申し訳なさそうに言う。


政子はうつむきながら

「いえ、私が習ったことを守っていなかったから…」

と小さな声で答えた。



「気をつけて?」

と、相変わらず強めの口調で言い残し、幸代はその場を離れていった。



政子は涙目になりながら、

「一花さん、ごめんなさい…」

とやっとの思いで言葉を絞り出した。



すると、一花は馬の鼻を優しく撫でながら、少し小さな声でゆっくりと話し始めた。


「実はね、もう10年くらい前になるかな…緒壁さんがとても気に入っていた馬がいたの。 ある日、レッスンが終わったあと、緒壁さんが今と同じようにその子を洗い場に直接ハミで繋いでいて、本当に運が悪く、急に大きな物音がして、その子が驚いて暴れ出してしまったんです。

その時、やっぱり、その子の口が切れてしまって… その子は乗馬馬として復帰できなくなってしまったんです…」



「そんな…」



「そのあと、緒壁さんはしばらくクラブを休んでいたけど、やっぱり馬が好きで戻ってきてくれたんです。
でも、それ以来、明るさが無くなってしまったというか…どこか以前とは違う感じになってしまって…」


一花は少し寂しそうに話し続けた。


そして、今度は少し微笑んで優しく付け加えた。

「緒壁さんはね、このクラブに20年近く在籍していて、

あ、だから私よりずっと先輩なのね、ふふ、

でも本当に、昔から今も、とにかく馬を大事にする人なの。
だから、少し厳しいところがあるかもしれないけど、それも全部、馬への愛情から来てるんですよ」


その言葉を聞き、政子は改めて幸代の強い視線と、彼女の一言一言が持つ重さを思い出した。


政子にとって、馬と接することはまだ新鮮な挑戦に過ぎなかったが、幸代にとっては長年積み重ねてきた大切な存在であり、守りたい相手だったのだ。


目の前の馬が「ふるる」と無邪気に鼻を鳴らす。


政子はその濁りの無い美しい瞳を見つめながら、自分がどれだけ馬のことを考えられていなかったかを痛感した。


「ごめんね…」

と小さく呟き、その子の鼻をそっと撫でると、触れた手から伝わる温かさが彼女の心をじんわりと満たしていく。


「私も…もっとあなたを大事にするね」


その子に向かって心の中で静かに誓い、

「よろしくね」

と小さく声に出すと、
政子は、幸代や一花が大切にしてきた「馬への思い」を受け継ぐように、再び強い決意を抱いたのだった。


(つづく)





#11

政子が乗馬クラブに通い始めてから1か月程が経った。

平日はパート、土日は乗馬クラブという生活リズムが出来上がり、充実した日々を過ごしていた。

最初の頃は、馬に跨がるだけで緊張し、全身に余計な力が入ってしまって、肩や腕がすぐにパンパンに疲れてしまった。

レッスンを終えた翌日には、太ももやふくらはぎが筋肉痛になり、階段の上り下りも辛いほどだった。

最初に覚える騎乗、馬の動きに合わせて体を動かす「軽速歩(けいはやあし)」の練習では、馬のリズムに乗れず、馬が小さく跳ねるたびに政子の体が飛び跳ねるように揺れてしまう。
インストラクターから「肩の力を抜いて」「もっとリラックスして」と言われるたびに、政子はぎこちなく笑うしかなかった。

さらに、レッスンの途中で「手綱はしっかり、でも柔らかく」と指示されるたび、政子は「どういうこと?」と頭の中が混乱するばかりだった。
力が入りすぎて手綱を引きすぎてしまい、馬が嫌がって首を振ると「あ、ごめんね!」と、馬に小さく謝り、 レッスンが終わると、
「普通に乗れるようになるまで、何年かかるのかしら…」
と落ち込む事が多かった。


そして、
ちょうど10回目のレッスンの時だった、
「1,2,1,2,そうそう、うまくリズムが取れてきましたね!」
インストラクターの声に合わせて、ようやく馬のリズムに体を合わせる事が出来た。

失敗と注意の繰り返しに、最初は心が折れそうになったが、 その時、ぴたりと馬とのリズムが合い軽速歩が継続する瞬間が訪れたのだ。

(リズムとリラックス、リズムとリラックス)

とつぶやきながら、 ついに、軽速歩のコツを掴んだ政子は、その後、何度でも出来るようになった。
「私、できた…!」

軽速歩が続くと、風が心地よく頬を撫で、馬と一体になれたような感覚になる。
政子は、自分が夢見た騎手の姿に一歩近づいた気がして、胸が高鳴った。

「初心者レッスン卒業ですね!次回から上のクラスに行きましょうか!」

インストラクターのその言葉に、政子の顔に自然と笑みが浮かび、嬉しさと達成感でいっぱいになった。

レッスンが終わり、馬を降りると、いつもとは違い足取りが軽く感じられ、自分の心が少し大きくなったような気さえした。

洗い場に馬を繋ぎ、「ふ~っ」と一息ついた瞬間、自分が思わずにやけていることに気づき、さらに嬉しさが込み上げてきた。



その時だった、

「あんた、何やってんのよ!」

突然、後ろの方から怒鳴り声が聞こえた。
何が起こったか一瞬分からなかったが、
その怒鳴り声は、どうやら自分に向けられている事に気づいた。
恐る恐る後ろを振り返ると、 一人の女性が政子の方をにらみ、立ち尽くしていた。


(つづく)

最初から読む

#1

  5月の最終週、富士山が青空に映える晴れた日曜日。 御殿場馬術競技場は澄み渡る空気と共に緊張感に包まれていた。 政子は愛馬ウイニーと共に<富士山ダービー>のゲートゾーンに向かい、その瞬間の重みを噛みしめていた。 「ここまで来たんだ、私…」 緊張で必要以上に手綱を強く握っていた。...