#10


翌朝、

朝の静けさの中、政子はいつものようにキッチンで朝食の準備をしていた。


昨日の夫との衝突がまだ頭の片隅に残っていたが、それを振り払おうと気持ちを切り替えようとしていた。

政子と富善はお互い特に会話も無いままだった。


富善はいつもより早く朝食を終え、いつもより30分ほど早く家を出て行った。

その直後、 空がいつものように寝ぼけた顔で、階段をゆっくりと降りてきた。

政子の方を少し見てテーブルに座り、
小さな声で「いただきます」と言って、用意してあったパンに手を伸ばす。

政子は食器を洗いながら、ちらりと空の様子を伺う。
昨日のやり取りは、空の部屋まで聞こえていただろうという事は想像が出来ていた。

空もパンを一口食べながら、ちらりと政子の様子を伺った。


少し間を置いた後、テレビの方に目をやりながら
「母さんのやりたいようにやんなよ。」
と、また小さな声で言った。

彼の言葉にはいつものクールな響きがあったが、その裏に優しさが感じられた。


そんな空の言葉に政子は少し焦ったが、 その焦りを隠しながら
「あぁ、ありがとう。 大学、間に合うの?」
と空の方を見て言った。

空は
「大学なんて余裕だよ。
父さんにはさ、
俺からも何とか言っておくからさ。」 と、相変わらずパンをほおばりながらテレビを見たまま答えた。

「あんた! いつからそんなに逞しくなったの?!」
政子は嬉しくなって、少しにやけて尋ねた。


こうして、

空の援護はあったものの、あんまりすっきりしないまま、
政子の夢の入り口、乗馬クラブ通いは始まったのだった。


(つづく)



#9

家の玄関を開けると、政子は少し興奮した面持ちでリビングに足を踏み入れた。

家の中はいつも通りの静けさに包まれていたが、彼女の心の中では新しい挑戦への期待が高鳴っていた。

バッグを置いてキッチンへ向かうと、富善がテレビと新聞を同時に見ている姿が目に入る。

「ただいま、クラブと契約してきたよ」
と、軽く報告するつもりで声をかけた。

富善は新聞を広げたまま、少し眉をひそめて
「契約したって、乗馬クラブか?」
と政子の方を見た。

「そう。思った以上に素敵な場所で、すごく安心したの。
これから練習も本格的に始められると思うとワクワクするわ」

と、政子は心を弾ませながら説明する。

だが、富善は重い口調で言葉を続けた。

「おいおい、契約って、すぐにそんな大きな決断しちゃって大丈夫か?
お前、本気でやるつもりか?」

政子はその言葉に一瞬戸惑ったが、すぐに真剣な表情に変わった。

「え?もちろん本気よ。これまでずっとやりたかった事をやっと実現できるんだから」


しかし、富善は新聞をバサリと畳み、険しい表情で政子を見つめた。

「家計のこと考えたのか?
今さらそんな贅沢を楽しむ余裕があると思ってるのか?
家事だって手を抜かれたら困るし、お前にはもっとやるべきことがあるだろう!?」

その言葉に政子の胸が熱くなった。

彼女は今まで家族のために尽くしてきたが、ようやく自分のために何かを始められると思った矢先の反対に、言いようのない苛立ちが募る。

「贅沢じゃないわ。これは私の夢なの!
ずっと、子供が独立したら、自分のために何かしたいって思ってたのよ!
あなたには理解してもらえないかもしれないけど、これが私の新しい挑戦なの!」

富善は苛立ちを隠さずに、

「夢?挑戦? 
何をバカな事を言ってんだ。もう若くないんだぞ?
無理をしてケガでもしたらどうするんだ?
騎手になるだなんて、お前の夢は現実的じゃないのわかるだろ!?」

と反論する。

政子は目に涙を浮かべながら、必死に言葉を絞り出した。

「この前、あなた『怪我したら終わりだ』って言ったじゃない!
あれは何だったの?嘘だったの!?」

「そんなに早く決めると思わなかったし、普通はそういう大事なこと、事前に相談するもんだろ!」

富善も負けじと声を張り上げる。

政子は涙をこらえながら、心の中の想いを爆発させる。

「でも、私はどうしてもやりたいの!
ずっと家族のために生きてきたけど、今度は自分のために何かを挑戦したいの!
もう、誰かのためだけに生きるんじゃなくて、自分のために、自分の夢を追いたいのよ!」


富善は深くため息をつき、無言でテレビに視線を戻した。

画面には芸人達がふざけているバラエティ番組が映し出されている。

重たい沈黙が漂うリビングに、空気を読まない笑い声がむなしく響いていた。

政子は涙を拭きながら、立ち尽くしていた。

数分が過ぎた頃、富善がようやく口を開いた。

「もう、好きにしろ」

諦めたようにぼそりと言いながら、リモコンのボタンを押してテレビのチャンネルを変えた。

政子はそんな富善をじっと見つめ、彼が本当に理解してくれる日を心の奥で願いつつ、自分の夢を追いかける決意を固めた。

 

#8

日曜日の朝、政子はいつもより早く起きて、少し緊張した面持ちで身支度を整えていた。クローゼットから動きやすいジーンズとシャツを選び、鏡の前で軽く身だしなみを整える。

「これで、大丈夫かな…」

家を出る頃、まだ家族は眠っており、政子は静かに玄関のドアを閉めた。
外の空気は少しひんやりしていて、でもよく晴れていて日差しが嬉しかった。

これから始まる新しい挑戦に胸が高鳴るのを感じた。


電車に揺られながら、政子はスマホで乗馬クラブの場所を確認した。
色々な想像が頭の中を巡り、
「ここで、本当に自分がやっていけるのかな…」と不安もあったが、その一方で「ここで自分を変えられるかもしれない」という期待が心の奥底で燃えていた。


駅から少し歩いた先に見えたのは、緑に囲まれた広々とした敷地。
手作り感のある「ホースランド結」の看板と木製の馬の置物が出迎る。

政子はその光景に一瞬立ち止まった。
深呼吸を一つして、 足を一歩踏み出した。


受付で名前を告げると、若い女性のインストラクター:横川一花が温かく迎えてくれ、早速クラブ内を案内してくれることになった。

厩舎には、さまざまな種類の馬たちがのんびりと過ごしており、政子はその光景に魅了された。
一花が、馬の世話やクラブの事を丁寧に説明してくれたので、政子の緊張も少しずつほぐれていった。


一花が一頭一頭、馬を丁寧に紹介してくれ、政子は馬たちの鼻面を撫でながら、にやけながら、その温もりを感じていた。

その時、ふと2頭先にいる馬の前で立つ女性に気づいた。

美しく、落ち着いた雰囲気をまとったその女性は、馬に優しく語りかけているようだった。

政子はその姿を見た瞬間、胸の奥に何か引っかかるものを感じた。
「どこかで見たことがあるような…」と思いながらも、すぐには思い出せず、そのまま見学を続けることにした。

馬場では、数名の人たちが馬に乗り、レッスンを受けていた。その光景を目にした瞬間、政子の心の中で夢が膨らんでいった。
気づけば、彼女は自分でも気がつかないうちに、またにやけてしまっていた。

そんな政子の顔を見た一花が、くすっと笑いながら
「馬に乗ってやりたいこととかあるんですか?」と尋ねた。
突然の問いかけに少し戸惑った政子だったが、意を決して口を開いた。

「あの…そ、ソフト競馬を…」と、声を少し小さめにして答える。

一花は目を輝かせて、「へぇ~!そうなんですね!最近、ソフト競馬の参加者も増えてきてるんですよ。一緒に楽しみましょう!」と笑顔で応えた。

「いやぁ…でも、私みたいなおばさんが、大丈夫なんですか?」と、政子は少し不安そうに言った。

スタッフは優しく微笑んで、
「大丈夫ですよ!芝田さんと同じような年代の方や、それ以上の年齢の方もたくさん楽しんでますから!」
と政子を励ました。

政子はホッとした表情を浮かべ、「そうなの?良かった~」と安心したように笑顔を見せた。


見学が一通り終わると、政子と一花はロビーのテーブルについた。
間もなく、フロントスタッフがホットコーヒーを運んできた。
「どうぞ。」
政子が湯気が立ち上る温かいカップに手を伸ばした時、一花が口を開いた。

「…さて、芝田さん。一通りご覧いただきましたが、どうで
「やります!会員になります!」
政子はその高鳴る気持ちを抑えられず、一花の言葉を遮るように勢いよく告げた。

政子の瞳は、これから始まる新しい冒険に対する期待で輝いていた。

普段、“会員勧誘“に気と時間を十分に使っていた一花は、あまりの速さに戸惑いを隠し切れなかった。

「え、あの、まだ、金額とかお伝えしてないんですけど…」

「大丈夫!やります!」

もう止められない政子になっていた。

契約書を凄い勢いで書き、その勢いで初回の予約を入れてクラブを後にした。 

#7

その夜、政子は食器洗いをしながら、ようやく夕飯にありつけた富善に向かって声をかけた。

「ねえ、ソフト競馬って知ってる?」

「ソフト競馬?なんだそれは?」

富善は焼き魚の身をほぐしながら、怪訝そうに尋ねた。

「テレビで見たんだけど、ポニーや小さな馬に乗って楽しむ競技、競馬なの。
初心者でも参加できるみたいで、私、それに挑戦してみたいの」
政子は少し緊張しながら話し始めた。

富善は眉をひそめて政子を見て、
「お前が?競馬?そんな危ないこと、年齢も考えてみろよ」 と、即座に反対の意を示した。

政子は少し怯んだが、すぐに反論した。

「違うの、危なくないの! あなたは『ソフト競馬』を知らないからよ。YouTubeでやってるから見てみてよ」

「めんどくさいし、怪我されても困るからやめとけって」

ソファーでニンテンドーDSをしていた空が、そのやり取りを聞きいて口を挟んだ。

「別にいいんじゃない。やってみたら?」 と軽い口調で賛成の意を示した。

「おまえ、お母さんが無理してケガでもされたらどうするんだ?家事とか」
富善は焼き魚の身をほぐす手を止め、空を諭すように言った。

「もう母さんだって、好きなことやったっていいじゃん。
 家の事?少しくらいオレだってできるし」

空はDSの画面から目を離さずに答える。

「言ったな」
「言ったな」

政子と富善がハモった。

空は慌てて2人の方を見て、「いやぁ…」と答えるのが精いっぱいだった。

「とにかく、俺は反対だぞ。 そもそもお前が騎手?になんてなれるわけがないじゃんか」
富善は再び焼き魚の身をほぐしだした。

政子は最後の皿を拭き終え、
「私、もう申し込んだの。だからやるの、やるしかないの!」
と、強い意志を込めて言い切った。

富善はしばらく黙り込み、黙々と焼き魚を食べ続けた。


そして、最後の一口を食べ終わると、
「じゃあ、怪我したら、お終いな」 と、テレビのニュースを見ながら言った。

政子は富善のお茶碗と皿を片付けながら、「ありがとね」と少し微笑んだ。

家族からの賛否両論を受けながらも、政子は新たな挑戦に向けてその一歩を踏み出した。


#6

 「はい、ホースランド結(むすび)です!」

受話器の向こうから明るい声が聞こえた瞬間、政子は息を呑んだ。

思わず一瞬の沈黙が流れる。


「あ、もしもし…あの、そ、ソフト競馬についてお伺いしたいんですけれど…」

緊張を隠し切れない声で、政子は自分の要件を伝える。

すると、クラブのスタッフは親切に説明を始めてくれた。

「もちろんです!初心者でも気軽に楽しんでいただけますよ。
まずは見学から始められる方が多いです。ご興味があれば、ぜひお越しください!」


政子はスタッフの温かい対応にほっと胸をなで下ろした。

そして、次に口を開いたときには、少しだけ自信が戻ってきていた。

「それでは、見学をお願いしたいのですが、週末の予約はまだ可能でしょうか?」

「はい、大丈夫ですよ。お名前とご連絡先をお伺いしてもよろしいですか?」


電話を切る頃には、政子の心はもう次のステップへ進む準備ができていた。

夢に向かって一歩を踏み出した実感が、彼女の胸にじんわりと広がっていった。


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#1

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